会社概要・沿革
会社概要
屋号 | 似島汽船株式会社 |
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本社 | 広島市南区宇品海岸1-13-26 |
TEL | (082)251-6516 |
代表取締役 | 浜本義幸 |
創設 | 昭和28年2月28日 |
主取引銀行 | 広島市農協似島支店・広島銀行宇品支店 |
事業内容 | 旅客定期航路事業(フェリー事業) |
登録番号 | T-8240001017862 |
航路 | 広島~似島 1日13往復(学園前に3回寄港) |
所有船舶 | 第十こふじ(347トン、定員600人)両頭型フェリー |
フェリー直通ダイヤル | (予約・お問い合せ)090-3744-9039 |
スタッフ | 船員8名、事務員1名 |
沿革
昭和28年2月28日 | 創設 当初、浜本・小西の共同経営 |
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昭和31年4月6日 | 浜本武義の単独経営となる |
平成18年11月1日 | 株式会社となり浜本武義は会長に就任 |
平成19年1月1日 | 似島汽船株式会社が実質的な運営を開始する |
似島での市街地との交通手段は、古くは「待ち便」を利用していました。これは似島の商店主の持ち船で、主な目的は榎町の市場から商品を仕入れるためでしたが、住民の市街地往来の便にも提供されていました。櫓(ろ)を備えた小舟で、十数人の乗客は交代で櫓を押して対岸へ渡っていたといいます。
連絡船の就航は、大正末期に中下・山田の両氏が、長さ15m、焼き玉エンジン15馬力、定員40人の木造船で始めたのが最初でした。その後、昭和4年に広島市より年間400円の補助を受け、これを機に長さ15.5m、焼き玉エンジン17馬力、定員45人の木造船となりました。この時の経営者は山田・小西の両氏でした。太平洋戦争中には、長さ15.8m、焼き玉エンジン25馬力、定員50人の船となり、その後、長さは同じでWエンジン(2気筒)40馬力、定員60人の木造船へと変わっていきました。戦争中も連絡船は運航を続け、似島と広島の唯一の海上交通として役割を果たしていました。
戦後の昭和20年11月、復員してきた山田氏は、小西氏と連絡船の共同経営を始めました。この2人の経営は、昭和28年2月28日まで続きました。「第十五小富士丸」の就航とともに、浜本(現在の経営者)が山田氏より営業権を譲り受け、小西氏と共同経営を始めることになりました。
連絡船の就航は、大正末期に中下・山田の両氏が、長さ15m、焼き玉エンジン15馬力、定員40人の木造船で始めたのが最初でした。その後、昭和4年に広島市より年間400円の補助を受け、これを機に長さ15.5m、焼き玉エンジン17馬力、定員45人の木造船となりました。この時の経営者は山田・小西の両氏でした。太平洋戦争中には、長さ15.8m、焼き玉エンジン25馬力、定員50人の船となり、その後、長さは同じでWエンジン(2気筒)40馬力、定員60人の木造船へと変わっていきました。戦争中も連絡船は運航を続け、似島と広島の唯一の海上交通として役割を果たしていました。
戦後の昭和20年11月、復員してきた山田氏は、小西氏と連絡船の共同経営を始めました。この2人の経営は、昭和28年2月28日まで続きました。「第十五小富士丸」の就航とともに、浜本(現在の経営者)が山田氏より営業権を譲り受け、小西氏と共同経営を始めることになりました。
昭和38年当時の似島桟橋
昭和38年当時の船の暖房は「ひちりん」で、炭火をおこし、火鉢に入れて、客室に置いていました。客室は畳敷きで、お客は火鉢を囲んで世間話に花を咲かせていたようです。
木造船は年に数回「干してたでる」作業を行います。「たでる」とは「焼く」という意味で、木造船を海に浸けたままにしておくと、船底に貝類が付き船足を遅くしたり、虫が船底に穴を開けるため、それらを防ぐための作業です。干してたでた後は、貝類の付着や虫食いを防ぐためのペンキを塗って仕上げるのですが、この労力は大変なもので家族総出で行っていました。
鋼鉄船は年に2回ドック入りし整備するだけでよく、木造船に比べ維持管理が容易なことが特長です。
木造船は年に数回「干してたでる」作業を行います。「たでる」とは「焼く」という意味で、木造船を海に浸けたままにしておくと、船底に貝類が付き船足を遅くしたり、虫が船底に穴を開けるため、それらを防ぐための作業です。干してたでた後は、貝類の付着や虫食いを防ぐためのペンキを塗って仕上げるのですが、この労力は大変なもので家族総出で行っていました。
鋼鉄船は年に2回ドック入りし整備するだけでよく、木造船に比べ維持管理が容易なことが特長です。